飼育放棄する飼い主へ ホラー小説「お前のせいで俺はもう限界だ」

ワンちゃんの後ろ姿 小説
ワンちゃんの後ろ姿

犬というものは、もっと人に従順で、愛くるしいのだと思っていた。だからこそ、ペットショップで高い金を出して買ってやったのだ。なのに、奴ときたらこの俺の言うことは聞かないし、散歩をしても、飼い主を置いていかんばかりの勢いでぐいぐい先に行ってしまうし、ことわざのように俺の手を噛んでくるし、躾けようとしてもあたり構わずフンを巻き散らしていく。
この三か月間、奴には全く失望させられた。成長して図体ばかりでかくなった奴を見ていると、巨大な不良債権を抱えてしまったのだと頭が痛くなる。
「大飯喰らいのアホ犬め、貴様には本当に愛想が尽きた。見ていろ、飼い主を愚弄した罰だ。貴様を上手く処分する方法を探してやるからな」
俺が言うと、こちらの剣幕に敵意を覚えたか、奴は額に皺を寄せ、真っ黒の目に邪気を込め、俺を脅迫するかのように唸り声をあげている。
「飼い主に向かって、その態度はなんだ! 自分の立場がわかっているのか! 犬畜生め。貴様に対して情などもういらぬ。今すぐ保健所に連絡してくれる」
俺はペットに憎まれるというみっともなさに心を痛め、いよいよ怒りが収まらなかった。元の平和な日々を取り戻すため、早速電話帳にある保健所に電話をかけた。
「おお、保健所の方ですか。今日の用件は他でもない。うちで飼っている犬が、手のつけられない狂犬でね。おたくらに殺処分していただきたい」
自分の飼っている犬を殺してくださいだなんて、ちょっと言いづらいことだ。倫理的にも苦悩するところではあるし、世の飼い主たちも、いざ手放す時には、心を痛めているのではないか。
「うちの保健所では、そういった理由でのペットの引き取りは受け付けておりません」
俺は信じられない思いだった。国家の根幹をなすべき公務員の口から出たとは思えぬ、無責任で冷淡な回答であった。この男は、一体どういう了見でこの俺に向かってのたまうのか。
「それは面白いですね。保健所ってのは、この世に害をなす動物を処分するために存在してるんでしょう? あんたたちは職務放棄をするつもりなんですか」
しかしこの職員は態度を改めることはなく、またしても冷たい言葉を俺に投げかけてきた。
「動物愛護法が改正されましてね、飼い主の都合でペットを処分することはできなくなったんですよ」
この男にも腹が立つが、そんなふざけた法律ができていたことにも、激しい憤りを覚えた。だったら、俺はこのアホ犬とあと十年以上、向き合わなきゃいけないってことか? なんてことだ、これじゃ俺の人生は滅茶苦茶だ。そんなのは絶対にごめんだ。激怒した俺は、アホ犬を檻の中に閉じ込めると、愛車のジープの荷台に乗せて、急発進させた。

一年前、俺は心臓の病気を患って、長期入院をしていた。身寄りのない俺は、長い入院生活、孤独というものが如何に絶望的な物かを思い知らされた。
父も母も、ろくなものではなかったし、向こうも勝手に死んでしまった。片親だけ血の繋がった兄弟がいるが、他人よりも仲は険悪だった。
俺は愛に飢えていた。支えてくれる人がいて欲しい、そっと後ろから抱きしめて欲しかった。そんなとき、テレビで老人と柴犬が顔をすり合わせて愛し合っているのを、見てしまったのだ。
あんな愛の形もあるのか。心が通じ合っていれば、相手が人間じゃなくたっていいんじゃないのか。
俺もああなりたい。病院のベッドの上で、湧きあがるように胸が熱くなっていた。

車が高速道路に入る。アクセルを強く踏んで、右車線に乗り出した。ここは豪快に飛ばすドライバーが多いことで有名だった。
事前に調べたところによると、犬を捨てると百万円くらいの罰金を科されるらしい。考えただけで恐ろしい話だが、背に腹は代えられなかった。
俺の足がつかないくらいに、遠くに捨ててしまえばいい。なにも、人を殺したわけじゃない。ばれはしないさ。せっかくだから、このまま旅行も兼ねて、温泉のある県まで行ってしまおうか。犬は手放せるわ、健康になるわ、いいことづくめだ。
後ろの方で、犬が悲痛な声で鳴いている。小便を漏らしているようで、車内に酷い悪臭が充満していた。全く、生き物というのはこれだから困る。俺は全ての窓を開け、換気に努めた。
突風が、窓から社内に入ってくる、いい具合に臭いが消し飛んで、犬の悲痛な叫びも細くなっていった。
その時だった、随分長いこと止まっていた持病の発作が、突然再発したのだ。運転が、まともにできない、手に力を入れるどころか、全身が崩れ落ちそうだ。安全なところに、車を、ああっ、遅い――。
俺の車は後ろから追突され、勢いのまま道を大きく外れ、落下し、車が、俺自身も、ぐちゃぐちゃになって、命を落とした。

生まれ変わった時、俺はまた人として生を受けていた。
しかし、呼び名が変わっていた。俺は首輪をつけられ、紐で引かれている。時代は、変わったのである。
「おや、犬上さんのおたくでは、ペットを飼い始めたのですか?」
犬上が近所に住んでいる犬岡に向かって、クンクン鼻をかいでいる。
「ええ、ヒトブタというんですがね、世話は焼けますが、かわいいもんですよ」
それを聞いた犬岡が目を丸くして驚いている。
「ヒトブタ、というと、かつてこの星の霊長だったという……」
「まさか、ただの言い伝えですよ。なにしろこいつときたら、歩くことと食うことしか、楽しみがないんですから」
犬上はそうして散歩を終えた。五分しか歩いていない。まだ、全然歩き足りない。
それからというもの、俺は何日も散歩に連れていってもらえなかった。腹もすっかり空になってしまっている。目の前にあるのは無。なにもない時間がただただ過ぎていく。
こんな生活もう嫌だ。一日二回は、散歩に連れていってくれ。ちゃんと毎日ご飯を出してくれ。もっと俺を愛してくれ。頼むから放っておかないでくれ。俺はもう耐えられない。俺はもう限界だ……。(了)

タイトルとURLをコピーしました