成長とゆとりの食い違い?障害者あるある失敗話その5 茶番に浸る

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茶番、という言葉があります。辞書で調べてみると「底の割れたばかばかしい行為や物事。茶番劇」とあります。

茶番(ちゃばん)の意味や使い方 Weblio辞書
茶番とは?歴史民俗用語。 ① 茶の接待をする人。 ② 〔江戸時代、芝居の楽屋で茶番の下回りなどが始めたからという〕 手近な物などを用いて行う滑稽な寸劇や話芸。 → 立茶番 ・口上(こうじよう)茶番 ・俄(にわか) ③ 底の割れ...

そんな物に巻き込まれてはさぞかしくだらない気分になるでしょうが、今回私が話す茶番というのは相対的なもので、ある人にとっては刺激的で熱い思いのこもった場所、でも一方では白けてしまっているというすれ違いがあります。一体なぜこんなことが起こるのでしょうか。

精神医療に関わった方ならわかると思うのですが、基本的に現実社会の厳しさとは隔絶された場所です。入院中はなにもしないで多くの時間を潰し、リハビリでは楽な生活訓練をこなして過ごす。たとえば若い人が病気になり、初めて精神科リハビリの世界に足を踏み入れた時、今まで生きてきた社会とのあまりの違いに絶望し、こんな老人ホームみたいな場所で、子供の遊びのようなことをしていられるか! ということにもなるわけです。

しかし逆のパターンもあるのです。今まである場所に刺激や未来を求めてやってきていたのに、自分の回復、成長に従って、いつしか見えている景色が変わっていき、必要だったはずの場所や支援が急に色褪せて、まさに茶番に浸っている状況に変わってしまった。「一体俺はなぜこんな茶番に浸っているのだろう、自分の意志でここに来ているはずなのに……」ということも起こりうるのです。

その原因の一つは、障害者の世界がゆとりに満ちているからです。現実として障害があるわけだから、多少なりとも別のもので補填しないと活動すること自体ができないわけです。そうなると、一般社会の目から見たときに、どうしても甘いものになりがちです。

そして状況の改善が起きやすい精神障害において、回復と成長と共に、割と小刻みに「茶番」と遭遇する機会が増えてくるのです。

まあ必要なくなったのならば、止めるなり離れるなりすればいいと思うのですが、実際のところ継続しているものを突然止めるというのはなかなか器用にできないものです。「やっぱりまだ自分には必要なんじゃないか」「あの人になんと言って出ていけばいいものか」「この先、新しい世界でやっていけるのだろうか」みたいに不安になります。

やはり、みんながみんな上手く切り替えられるわけではないので、実際に悶着を起こして、せっかく築き上げてきた大事な絆まで失ってしまうということもあります。自分も相手も傷ついた末に、新しい場所に向かわねばならないというのは辛いことですよね。

ですが、相対的に茶番を感じるということは、決して悪いことではないのです。自分がよくなっているこの上ない証でもあります。未来に向かうための大事なサインなのです。もしそんな場面に遭遇したら、自信を持って歩まれることをおすすめします。その上で関わってきた方たちに敬意を払うことも、忘れないようにしていただきたいですね。

袖振り合うも多生の縁。たとえ自分が生きていく世界が変わったとしても、共に過ごした仲間は大事にしたいものです。

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