デビュー

 松田は眉のつり下がった虚ろな目で、暗欝に己の人生を自嘲していた。俺に生きている価値などあるのだろうか、一体どうしてこうなってしまったのか、と。
 松田が間違いに気付いたのは、センター試験を一か月前に控えた日の事だった。
 松田が受験するセンター試験の国語は、現代文、古典、漢文と分かれている。だが松田の志望校の本試験は漢文を扱っていなかった。それでいらないと思い、模試のたびに漢文を無視していたのだ。
 しかしそれは大きな間違いだった。センター試験では二百点中、五十点を占める漢文は、本試験とは関係なく成績として反映される。従って五十点を溝に捨てかけたのだ。
 とにかく対策を考えるため、担任に報告すると、担任は呆れかえったような気だるい目で「このアホ、もう遅いわ」と冷たく言い放った。
 担任だけではない、クラスメイトも、親も、松田に優しくする人は誰もいなかった。根が暗い、不器用な松田は愛されないタイプの少年だった。
「お前ナナちゃんの新作観た? 相変わらず最高だったよ。セックスシーン多いし。喘ぐ表情なんて最高。ナナちゃんだけは俺たちの期待を裏切らないよな」
 横に並んで歩く友人の西尾が、松田の意など介さず、アダルトDVDの話を熱烈に語る。その無神経さといい、歩くたびに揺れる脂肪といい、不愉快そのものだった。てめえなんざ死んでしまえと西尾の銀縁眼鏡の先に呪いを送った。
 漢文の五十点をロスするのはあまりに痛い。センター試験の合格はおそらく無理だろう。本試験でもまだ偏差値が十五足りない。受験という、長く、過酷な試練のせいで、松田はすっかりまいっていた。
 ここのところ心労で頭を掻くだけで髪の毛がボロボロ落ちてくる。心なしか髪が細くなった気もした。このままではいずれ禿げてしまうのではないだろうか。何故十代のうちにこんな思いをせねばならないのか。青春とはこんなに辛い物なのか。松田は己の不遇を嘆きたかった。
 松田は顔を上げて前を向くと、胸が刃物で突き刺されたような衝撃を受けた。前から髪を短く切り揃え、色白で丸みを帯びた、幼い顔つきの少女が歩いていた。隣のクラスを通りかかるその少女は、松田の片想いの相手だった。
 松田は彼女のつぶらな瞳から視線をそらす。そらさなければ、胸の痛みは更に痛みを増し、耐えられなくなってしまうと思った。そして今日の彼女は男連れだった。
 背が高く、小顔で、目元が涼しげで、茶髪。松田が最も忌み嫌うタイプの男だった。少女と男はお互い笑顔で顔を合わせている。仲の良いカップルなのだろう。もしかして俺たちの事を小馬鹿にして笑っているのかもしれない。松田は横目で西尾を睨んだ。モンゴル偉人の肖像画の如き不細工である西尾に溜息をついた。
 ああ、何か事件でも起きないだろうか。この暗い人生が激変するような凄い奴。例えばここに鋭利な長爪を武器にしたモンスターでも現れて、西尾の首を跳ね飛ばし、背の高いイケメンの顔を千切りにする、俺は運よく助かる。そして俺は少女を守り、何処までも逃げていく。少女はその過程で俺に恋心を抱くのだ。ついに袋小路に迷い込み、俺たちは絶体絶命の危機を迎える。そこで戦いの女神アテネが舞い降り、俺に神剣を授けてくれる。それを使って俺はモンスターを一刀両断にする。少女と俺の仲は急接近していく。そう、輝かしい物語がこうして始まるのだ! 松田の妄想はこうして自分の都合の良い方向に迷走していく。その妄想が繰り広げられているうちに二人は通り過ぎていった。
「それにしても蘭ちゃんが引退したのは残念だった。蘭ちゃんの心のこもったフェラがこれ以上見られないなんて寂しいよ。二十五で引退なんてもったいない」
 妄想内で首を跳ね飛ばされた西尾が一向にAVトークを止めない。松田は気付かれないように舌打ちした。

 西尾と別れると、松田は重い足取りで自宅へと向かった。二階建ての瓦屋根の家には、松田と父親しか住んでいない。母は弟を連れて離婚し、今では別々に暮らしている。二人で住むには少々大きすぎる家だった。
 家の限界を開けると、父が横の部屋でバットを振り回して騒いでいた。叫び散らすその濁声は聞き苦しいことこの上ない。
「田村がまた故障しやがった! 開幕絶望だとよ、ふーざけんじゃねえ。俺は春のために最新のDVDプレーヤーとバットと買って待ってたってのに、アスリートの癖にファンを舐めてやがるな。てめえが居なくてどうやって優勝するんだーっ!」
 松田の父は人気野球チームの狂信的なファンである。最近、訳あってリストラされたので、今年はほとんど家にこもって野球を見続けていた。目を血走らせながらテレビを凝視する父の姿に松田は恐怖した。親と言うのは己を映す鏡でもある。それだけに父の堕落は松田自身の将来を不安にさせた。ああ、こんな人生嫌だ。しかし嘆いても何も始まらない。
 松田はその荒くれた家の様子から、学費、生活費の心配をした。案外、三年後にはホームレスにでもなっているかもしれない。
 とにかくあの狂った父に絡まれると厄介だ。松田は足早に二階へと駆けこんだ。最近は父と目を合わすことすら避けている。家庭崩壊の見本のような状態だった。
 部屋に戻ってふと鏡に目をやると、松田は己の暗い将来が見えるようだった。目と目の間が広い、まるでヒラメだ。
 眉に皺を寄せため息をつくと、鞄からノートと参考書を取りだして、机の上に山のように積む。松田はその中から漢文のテキストを手に取った。
 テキストを読むが、まるで頭に入らない。今まで勉強してこなかったというのもあるが、一番の問題は集中できないことだった。
 低調な士気、解けない問題、上がらない偏差値、希望のもてない将来。その全ての障壁が松田のやる気を削いだ。魔の前には「必勝」と筆ペンで書かれた下手くそな書が貼られている。今では何が「必勝」なのかすらわからなくなってしまった。
 松田は少年期の自分を思い出していた。あの頃は身体が軽く、なんでもできると信じていた。笑って話せる友達も沢山居たし、海賊になりたいという無邪気な夢も持っていた。まだ幸せだった両親に連れられて、空手を習ったりもした。帯も二回変わり、青帯までは行ったのだ。今はそんなことをしていたのが嘘のように軟弱な身体になってしまったが。
 しかし、時は過ぎ、己の容姿の醜さに松田は気付き始めた。クラスメイト達も「お前の顔は気持ち悪いんだよ」と目と口で言うようになってきた。松田は焦った。必死で笑顔を作ってしゃべり続けるが、行動すればするほど気味悪がられ、友達は去っていった。生活は荒れていき、次第に松田は暗い少年になっていった。何故こうまで迫害されねばならないのかわからなかった。そして松田はいつしか、無理という言葉を知った。
「もう沢山だ!」
 松田は「必勝」に向かって叫ぶと、目の前にある鉛筆を一本取り、バキィという音と共にそれをへし折った。もう一本、もう一本、全ての鉛筆をへし折った。松田は「あはははははは」と泣くように笑った。これで今日は勉強ができない、俺はもう勉強をすることができない。だから、休んだっていいだろう?
 松田は折れた鉛筆を全てゴミ箱に突っ込んで、布団に突っ伏した。まだ冷える赤茶けた毛布に包まり、必死で目を瞑って時が過ぎるのを待った。
 寒い! 寒い! 寒い……暖かい。体温の力で徐々に温まっていく布団に安堵感を覚える。そのまま全て忘れて寝てしまおう。少なくとも寝ている間は辛いことも、現実も、何もかも忘れることができるのだ。グッドテイストな夢でも見て気を取り直そう。松田はうとうとと、眠りの世界に引き込まれていった。
 夢は見なかった。ただただ、安息の中に居た。瞑った目の奥が癒されていく。この時間こそ、全人類平等の物だ。虐げられた人たちも、この瞬間だけは幸せなはずだ。
 しかしそれも長く続かなかった。何か、強い振動を感じたのだ。
 どうやら携帯電話がバイブレーションしているらしい、松田は辛い現実に引き戻され、不快な気分と共に着信を確認した。どうやらメールが来ているようだ。表示されている時計を眺めると、今は夜中の一時だった。一体どこのアホが俺の眠りを妨げるのだ。ふざけやがって、俺を馬鹿にしているのか。
 松田が舌を鳴らして着信名を確認する。それは意外な人物だった。沢井美津子というインターネットのチャットで知り合った女性で、歳は三十路前後、かなり近場のアパートに住んでいて、オフ会で一度会ったこともあるのだ。露出の多い服装と、濃いめの化粧にピンク色に染めた長髪で、しゃべるのが好きなテンションの高い女性だった。人付き合いの下手な松田はあまり話さなかったが、連絡先だけは交換していた。まさか連絡が来るとは思わなかったので驚いた。一体、美津子は何の用でメールを送ってきたのか。松田は淡い期待と共に、メールを開く。
 松田は内容を確認し、唖然とした。
「今日、今から死にます」
 松田は衝撃的な内容を前に眠気が吹っ飛んだ。死ぬってなんだ。なにが原因で死ぬんだ。これだけではわからない。ああ、そういえば美津子は躁鬱病を患っていると言っていたっけ。人生に疲れて死にたくなったのかもしれない。俺だってこんな辛いことばかりでは、死にたいと思う気持ちはわからないでもない。しかし、その事実を知った松田は黙っているわけにはいかなかった。
 松田はとりあえず電話をすることにした。こんなメールの情報だけではどうしてやれば良いかもわからないからだ。
 何度着信を入れても繋がらない。今メールを送ってきたばかりなのに連絡が取れないとはどういうことだ。松田は焦り、何度も何度も通話ボタンを押す。そして八回目、ついに美津子と電話が繋がった。
「もしもし! 松田です」
 電話先で美津子は無言だった。まさか既に取り返しのつかないことになっているのではないか。不安になった松田は思わず「返事してください! なんでも相談に乗りますから!」と叫んだ。
 すると電話の先からすすり泣く声が聞こえる。そして嗚咽と共に「疲れたの、色んな物に」と美津子が消え入るような声で呟いた。
「終わりにしたいの、何もかも。ありがとね、電話くれて、ばいばい」
 通話が切れる。静寂が部屋に広がる。
 いやいや! それじゃ電話する前とまるで変わらないではないか。松田は狼狽し、何度も美津子の番号に通話ボタンを押すが、それっきり美津子は何の反応も示さなかった。
 松田は携帯電話を投げ捨てると、布団から抜け出て立ち上がった。夜中の部屋は寒いが、今の松田にはやることがあった。
 止むを得ない、美津子の家に行こう。松田は洗面所でお湯を出して寝ぐせを直す。二か月前に美容院で切ってもらった時はそれなりにかっこよく決まっていた髪も、伸びてしまえばただのマッシュルームカットである。
 茶色のダウンジャケットを羽織る。居間でテレビを付けっぱなしで爆睡している父を横目に、玄関を抜け、自転車に跨ると、真っすぐ美津子の家に向かった。
 美津子のアパートは自転車で十分程の場所にある。冬の夜風は厳しい、既に耳のあたりは痛みに悲鳴を上げているが、耐えられないほどではない。
 それに、松田の心境は寒さと反比例して熱くなっていた。つまらない日常が、この勇気ある行動によって変化するのではないか。そんな期待が胸を昂ぶらせる。
 見慣れた景色も夜になるといつもと違う重厚さを感じる、特に今日は全力で自転車を漕いでいるため、どんどん過ぎていく疾走感もあった。
 走ること十分、美津子のアパートに辿りついた。松田は自転車から降りて、ポストにある沢井美津子の名前を確認する。103号室だった。
 松田は美津子の部屋の前に立った。103号室で沢井と書いてある。間違いない。でもどうすればいいのだろうか。
 とりあえずピンポンを押してみるが、反応があるはずもない。松田は躊躇いつつも、ドアノブを回してみる、くるりと回った手の感触で、どうやら開いてしまうことがわかった。
 良いのだろうか。電話があったからといって、来てくれとは一言も言われていない。これは不法侵入になるのではないか。特に相手は女性である。ただでは済まないかもしれない。しかし松田は思いきってドアを開けた。
 そこには、涙を流しながら、過去に何度も切りつけたであろう痕がある手首にカッターナイフを突き付けている美津子が居た。部屋は暖房が効いていて暖かく、美津子は露出度の高いシャツとスカートを履いていた。相変わらず髪の毛はピンク色だったが、顔はすっぴんで、切れ長の細い目からはオフ会で会った時のような華やかさが失せていた。部屋中にコンビニで買った食料のゴミやティッシュの屑が散乱していて、乱れた生活が垣間見られた。
「来たの? 松田君」
 松田は「止めるんだ!」と言うつもりだった。しかし声が出なかった。この殺伐とした状況に呑まれてしまったのだ。
 しばし気まずい沈黙が続いた。松田はここに来たことを後悔した。勢いに任せたものの、俺に何ができるかわからなかった。こういう繊細な問題は家族やカウンセラーじゃないと手に負えないことだ。一度会っただけの俺が何故こんなに出しゃばってしまったのか。
 松田はここでも「無理」を感じていた。
 松田の様子をぽかんと眺めていた美津子は、次第にクスクスと笑いだした。
「松田君、せっかく来たのに何しに来たの? 止めてくれるかと思ってたのに」
 松田の顔がトウガラシのように紅潮していく。本当に俺は何をしにきたのだろう。このまま帰ってしまおうか。
 美津子は血のこびりついたカッターナイフをポイっと捨てて「上がりなよ、コーヒー入れてあげる」と松田を部屋に迎え入れた。その言葉に松田は敗北を感じたが、膠着した状況が動いたことは助けになった。言葉に甘えて部屋に入る松田。これでいいのだろう。少なくともリストカットを阻止することはできたのだ。

 ゴミの匂いが立ち込める部屋の中、美津子は酒が入り始めると、どんどん口汚く話すようになった。松田はその粗暴な振る舞いにびびっていた。
「あたし十人くらいにメール送ったのよ! それなのに一人しか来ないってありえなくない? みんなあたしが死んだってかまやしないのよ」
 美津子は松田がコーヒーを飲んでいる傍ら、ビールを三缶開けて酔っていた。俺は十人呼び出された内の一人だったのかと松田はカチンと来た。松田はメンヘラーが意外と自己中だということに気付かされた。
「それにしてもあんた不細工よね。見れば見るほど不細工だわ。あ、馬鹿にしてるわけじゃないからね、不細工も個性よ個性。元々特別なオンリーワンだからね。アハハハ」
「はあ、そうですか」
 美津子は唾を飛ばしながら普通に悪口を言ってきた。松田は不愉快になり顔をしかめる。酒に酔うとこうも人は気遣いがなくなるものか。ここまでストレートに己の顔を馬鹿にされると腹が立つ。これじゃ学校に居るのと一緒じゃないか。同級生たちが嘲り笑う顔が目に浮かぶ。それが美津子の下品な笑いと重なっていく。
 何かに期待していた自分が馬鹿みたいだ。松田は適当に時間を見て帰ろうかと思った。
「そうだ! 良いこと思いついた!」
 美津子が突然勢いよく立ちあがり、洗面所に入り、青と金色模様の細い箱を持ってきた。
「あんたさ、金髪になりなよ!」
「え、金髪……?」
 美津子が持っていた箱はブリーチと言う髪の色を脱色する薬品だった。その箱には完璧に容姿の整った金髪男のCGが描かれていた。
「その救いようのない不細工がちょっとはマシになるかもしれない。いや、もしかしたらあんたモテモテよ」
「いやいや! 俺受験生ですよ! そんなの駄目に決まってるじゃないですか!」
 松田の拒絶に美津子は顔を鬼のように歪め、ドスを利かせて睨みつけた。
「うるさいわね、四の五の言わずやるのよ、そうじゃなきゃあんたを殺してあたしも死ぬわよ」
 美津子がカッターナイフを手に取り、刃が外に押し出される。美津子の暴君ぶりを完全にびびっている松田は、そのまま美津子の言うままに金髪へ変身する運びとなった。何かがおかしい。と思ってはいたが、美津子が血のついたカッタ―片手に睨みを利かせると委縮せざるを得なかった。
 美津子は箱から材料を取りだし、混合してブリーチ液を作った。それを松田の頭髪に付けて櫛でとかしていく。ビタビタになった頭髪に松田は不安感を煽られていった。明日の学校で先生にどう怒られ、同級生にどう笑われ、下級生にどう軽蔑されるか想像すると怖くなってきた。しかし美津子からは逃げられなかった。
「とりあえず十分くらい待って、その後シャワーで洗い流すの」
 どうやらブリーチというものは、つける時間が長ければ長いほど色が落ちていくらしい。松田は取り返しのつかないことになる気がしてならなかった。
「どんどん金色になっていくよ、あんたの髪。あと五分ね」
 松田は、何もかも終わった後のような諦観に浸っていた。美津子に流されるままに、松田の髪は脱色されていく。
 そして五分後、松田はビタビタの頭を洗い流そうとシャワー室に飛び込んだ。ところどころ黒いカビがこびりつき、とても女の部屋の物とは思えなかった。髪を金色の容器に入っている妙に高そうなシャンプーで洗い流し、鏡に駆けこむと、恐る恐る自分の顔を確認した。
 そこには、新しい松田が居た。染める前の松田がただのヒラメ顔なら、今は金色のヒラメになっていた。今までの俺とはまるで違う。垢ぬけて、満足げな細い瞳が自信ありげだ。その活き活きとした表情といい。これが本当に俺だろうか。松田は思わずニタりと笑みを浮かべた。俺は、変わったのだ!
 洗面所から松田は飛び出した。美津子がこの変身した自分を見てなんというか楽しみだった。自分と同じ興奮を共有したかった。松田はどうだとばかりに得意気な顔をした。
「ぶひゃひゃひゃひゃ! 何それうける。あんた最高!」
 美津子は腹を抱えて笑いだした。嘲笑されているのだ。さっきまでの自信は完全に打ち砕かれた。
 美津子は延々と笑い転げている。その様子から、松田は惨めで、それでいて腹立たしく、殺意が湧いてきたた。松田は美津子を睨みつける。その白い肢体が目に入った。胸も大きく、豊かな身体だった。
 殺すだって? それくらいならもっとやることがあるだろう。俺を舐めるな。ならどうする? 松田は腹にどす黒い悪意を秘め、ゆっくりと美津子に近づいて行った。
 美津子は松田の不穏な様子に気づき、笑うのを止め、顔を引きつりだした。
「な、何? あんた、怖いよ?」
 松田は無言無表情で美津子に迫る。その冷徹さは、これから己が行う蛮行を意識しないための防御策なのかもしれない。美津子は勢いに呑まれ動けないようだ。
 松田はうおおおと叫ぶと、美津子に飛びかかった。部屋に男を入れたのだから、これくらいの覚悟はしておけ! 松田は美津子の服に手をかける。しかし女の服などほとんど触ったことすらない、そのシャツに触っただけで松田は尻込みしてしまった。
 それと共に、美津子のあまりの嫌がりよう、抵抗に気持ちが萎えていくのを感じた。基本的に自分が弱い人間なのだということを思い知らされているようだった。
「いや! 離して、離せよ。ふざけんなてめえ。離せよ!」
 既に髪の色は取り返しのつかないことになっている。何も恐れることはない、と思っていた。しかし強姦までする覚悟が松田にはなかった。美津子の口汚い罵声も戦意を削いだ。止めようかと思ったその時、ドアが開く音がした。
「ミツコ!」
 そこには強靭な体格をした、B系ファッションでスキンヘッドの黒人が立っていた。そういえば美津子は十人にメールを送っていたことを松田は思い出した。だからといってまさか今更訪ねてくるのは予想外だったが。
「襲われてるの! 助けて!」
 黒人が腕を鳴らし、じりじりと松田に近づいてくる。松田は後ずさり、背中が壁に激突する。完全に敵意を抱いている強大な相手の前に、失禁した。
 これで勝負はついた。松田は黒人に顔から足まで、全身に殴る蹴るの暴行を加えられた。女を襲ったというレッテルの前には、どんな情状酌量の余地もなかった。美津子が松田の殴られる様子を見てゲラゲラ笑っている。
 みぞおちを殴られ呼吸困難になり、歪んだ頬は更にへこんで歪み、脚に弁慶が百回泣くくらいの蹴りを入れられた。
 やられるだけやられると、松田はアパートの外に追い出された。ひんやりとしたアスファルトの上で、松田の顔には汗、涙、鼻血、よだれと顔から流れ出るあらゆる液体が付着していた。夜風がそれをキンキンに冷やしていく。最悪の状況なのに、そこだけ妙に気持ちよかった。
 黒人の凶悪な顔が目に浮かぶ。尿で濡れた股間を痛む手でさすった。
 受験も無理、彼女も無理、セックスも無理、喧嘩も無理。あらゆる無理を松田はまさに体現していた。
 俺はこのままずっと何もできないまま終わるのか。ああ熱い。ああ涙が止まらない。松田は冬の星空を見上げ、己の金髪を弄った。

――もし次に起き上った時、俺は、変われるのだろうか。

 四ヶ月後

 受験シーズンも終わり、春の暖かい大気が町を包んでいる。
 松田の学校で卒業式が行われ一週間。卒業生たちは春休みを満喫し、新しい生活へと夢を馳せていた。
 松田は茨の如き学校生活から解放され、自由になった我が身と共に穏やかな気持ちで過ごしていた。こういう日々が来るのを待っていたのかもしれない、と身体を伸ばしていた。
 松田の家の駐車場に車が入ってくる。それは松田が待ちわびていた人物の物だった。
「おお我が親友よ!」
 ニット帽を被った松田が西尾を玄関で出迎えた。西尾が松田の家に来るのは初めてだった。慣れない機会だったので、お互い、妙に照れくさそうにしていた。
「お前なんかテンション高いな、あっ、お邪魔しています」
 松田の父がびくびくしながら頭を下げる。松田はゴミ箱の横にある折れたバットを一瞥した。
「お前の父ちゃんなんかおどおどしてるね」
 二階に上がると、西尾が不審そうにいう。
「そういう性格なのさ、それより、お前ちゃんと車買ったんだな」
「そうさ、免許も取ったし、これで晴れて俺もドライバーだ」
 松田は西尾に「素晴らしい計画があるから今のうちに免許をとっておけ」と言っておいた。松田は決してその詳細を語らなかったにも関わらず、律義な西尾はそれを守ったのだ。
「で、計画ってなんだよ。面白い話なんだろうな」
「うむ、俺たちが大きく変わる、革命的な素晴らしい計画だ」
「なんだよ、じらすな、早く教えてくれ」
 松田は不敵な笑みを浮かべ、被っていたニット帽を掴み、さっと脱いだ。それを見た西尾は眉を吊り上げ驚愕した。
「松田……お前」
 松田の髪は金髪だった。四ヶ月前染めた時は、一日学校を休み黒に染め直したが、卒業と共に再び金色のヒラメに戻ったのだ。
 松田は誇らしげに西尾を眺める、西尾は何を言えば良いかわからず、口ごもっていた。
「お前を赤毛にしてやる」
「え! 俺が?」
 松田は机の上にあったギャッツビーのヘアカラーを取り、西尾に迫る。西尾は目をぎょろつかせ困惑する。松田は誘うように西尾の肩を叩いた。
「で、でも俺、デブだし、そんな垢ぬけた髪型全然似合わないし……」
「馬鹿、この俺を見ろ、こんなヒラメみたいな顔をしているが、そんなに悪くない。大事なのは心なんだ。世界の誰がお前を笑おうと、俺だけは味方だ。さあ! 染めるんだ」
「ちょ、ちょっと心の勇気が」
「四の五の言わずやるんだよ」
 涙目の西尾の髪に松田はヘアカラーを塗りたくっていった。

 十五分後。

「ぶはははははは! すげえよお前」
「やっぱり笑うんじゃねえか! この大うそつき!」
「違う、お前の激変ぶりに感心しているだけだ。いや、恐れ入ったよ」
 西尾は完全に赤毛になっていた。チンギスハーンの肖像画のような顔をした西尾が赤毛! 笑ってはいけない。とにかく大切なのは心だ。徐々に似合ってくるに違いない。松田は西尾の背中をポンと叩くと、西尾は「ヘヘッ」と笑った。
「で、計画ってなんだよ。赤毛にするだけじゃないんだろ、なんだか俺、なんでもできそうな気がしてきた」
 西尾は鏡を凝視しながら興奮している。松田は沢井美津子に髪を染められたときに感じた胸の昂ぶりを思い出していた。新しい自分になるということは世界その物が変わることなのだ。
「そうだ。俺は受験で早々に合格を決めて以来、情報集めにいそしんでいた。そしてついに決定的な情報を掴んだんだ。東京都の隣にある山梨県に『伝説のナンパロード』が存在するらしい」
 伝説のナンパロード。そこはいくらでも可愛い女の子が通りかかる伝説の聖地である。そこでナンパをすれば必ずや望みの女の子とイチャイチャすることができるという。それが山梨に、ある。
「ナンパロードって、まさか」
「そうだ、俺たちは今からナンパをしにいくんだ。この髪と車、そして」
 松田は上着を脱ぎ捨てる、それを見た西尾は驚きのあまり、細い目を見開き、あんぐり開いた口が塞がらないようだった。
 松田は筋肉の鎧に包まれていた。きっと西尾はこれだけの肉体を間近で見るのは初めてだったのだろう。松田は得意気にポーズをとり「この肉体がある」と宣言した。松田はこの四カ月間、必死で筋肉トレーニングをして、この肉体を手に入れたのだ。志望校を諦め、地元私立大学に目標を絞ったことで、そういう余裕ができた。
「で、でも。ナンパなんてして、失敗したら……」
「馬鹿、頭を働かせろ。俺たちが行くのは山梨だ。旅の恥はかき捨てだ。そして彼女をゲットしたら、俺たちは本当に変われるんだ。感じろ! 俺たちに不可能はないと、自分が世界一だと。俺たちを支配している『無理』から解き放たれるんだ」
 力強い掛け声と共に、二人の気持ちはナンパロードへと馳せていった。

 明くる日、陽がさんさんと降り注ぐ早朝、窓から心地よい風が入ってくる。中央高速を越え、西尾のダイハツムーヴに乗った二人は、ついに山梨県に到着した。
 人口密度は極めて少なく、県内のほとんどが山で占められているこの県は、何処からでも山が見える景観に優れた土地だった。松田は窓に身体を乗り出し、舐めるように外を見渡した。
「早速聞き込み作業だ」
「え、ナンパロード何処にあるか知らないのかよ?」
「そりゃ伝説だからな、ネット上を調べたが、有力な情報はなかったよ」
「なんだそりゃあ、いい加減だな」
 西尾が愚痴をこぼしている間、松田は目を凝らし歩道を見回していた。その先に、一人女の子が歩いていた。
「おい、西尾、車を止めろ、あの女の子にナンパロードについて聞くんだ」
「え、恥ずかしいよ。お前聞いてくれ」
 臆病風に吹かれた西尾を松田は馬鹿にするように蔑んだ。
「臆病者め、先が思いやられるぜ」
 松田は窓の先で歩いている、髪の長いズボンを履いた女の子を呼び止めた。
「すいません、伝説のナンパロードって何処にあるか知りませんか?」
「え! ナンパロード?」
 女の子が驚いて二人に目を向ける、その瞳から脅えがみてとれた。
「そうそう、山梨にあるって聞いたんですけど」
 松田がそう言うと、女の子は割と真面目に悩んでいるようだったが「ごめんなさい、わかりません」と丁寧に頭を下げ、去って行った。よくよく見ると瞳が大きく、ズボン姿が上品で可愛い娘だった。
「おい、松田。よく考えたらあの娘をナンパすればよかったんじゃないか」
「しまったな。まあ良い。ナンパロードに行けばいくらでも女の子は居るさ」
 二人は二時間くらい、山梨県の甲府市を駆けまわったが、有力な情報は得られなかった。途中渋滞に巻き込まれると二人のテンションはがくんと下がっていく。俺たちはナンパをしにきたのだ。こんなむさ苦しい奴とドライブをするためにきたわけではない、と二人とも思っていた。
 松田はさすがに不安になってきた。このままナンパもできずに帰ったらそれこそ徒労である。目をぎょろつかせ、必死でナンパロードを探した。
 途中、百貨店が立ち並ぶ街のある一角に、多数の人通りがあることに気付いた。眉目秀麗な女の子、金髪の女の子、メガネっ子、背の高いお姉系の女の子、あらゆる可愛い女の子がそこを歩いていた。
「おい、あそこにいっぱい女の子が通っているぞ」
 西尾も気付いたようで、前方を指で差し示す。
「そうか、ついに俺たちは見つけたようだな」
「あれが伝説のナンパロードだっていうのか?」
「今までで一番それらしき場所だ。西尾、駐車場に向かうぞ!」
 車のスピードを上げて道路を駆け巡り、駅前にある一時間四百円の有料駐車場にダイハツムーヴを停め、松田と西尾はナンパロードに向かった。
 途中すれ違う人々に畏怖を込めた目つきで視線を逸らされることに松田は気付いた。おそらく何処ぞのヤンキーだと思われているのだ。気持ち悪いと思われるよりどれだけ良いことか。むしろ心地いい。高校で俺たちを馬鹿にしていた奴らだったらなんと思うだろう。脅えるほどに見せつけてやりたい。
 そしてナンパロードに松田と西尾は足を踏み入れた。さっきほどではないが、可愛い女の子たちは確実に歩いていた。松田は鼻息を荒くし、西尾は顔を硬くする。
「おい、松田。俺、女の子に声かける勇気なんてないよ」
「その髪で何、弱気なこと言ってんだ。勇気を出せ、二人いっぺんに言うんだよ」
 二人がターゲットにしたのは、淡い黄色のワンピースがよく似合う、ハットを被った茶髪の女の子だった。目鼻立ちもよく、小ぶりの胸がなんともそそられる、さすがナンパロードを歩くだけのことはあると松田は感嘆した。
「そこの彼女!」
 松田が女の子の前に立ち塞がり、馴れ馴れしく声をかける。その時代遅れの呼びかけに女の子は身をびくつかせた。
「ちょっと俺たちとお茶でもどう?」
「えええ? いや。ちょっと……困ります」
 女の子は見るからに困っていた。しかし松田はまだまだ食い下がるつもりだった。俺たちには目がある、と信じているからこそだった。
「困られると俺たちも困っちゃうな。ちょっと、本当にちょっとでいいから」
「ごめんなさい!」
 女の子は駆けだすように先に行ってしまった。松田の目論みは外れた。松田は女の子の背中を目で追うが、どんどん遠ざかって行った。
「おい、松田。全然駄目じゃねえか」
「いや、あれはまだ脈があったぜ、困るってことは可能性があるってことさ」
「そうなのか? ってお前……」
 松田は小刻みにガタガタと震えていた。目も苦しみで引きつっていた。ただ、笑みだけを無理に浮かべていた。女の子にこんな風に声をかけるのは松田も初めてだった。緊張に負けそうになった。しかし。やったのだ。松田は自分が一つの壁を越えたことを実感していた。その向上心が松田に力を与えたのだ。
 西尾が震える松田の肩に手を置き、松田に強い視線を向けた。
「松田ぁ……俺も頑張って声かけてみるよ」
「そうだ、西尾、その意気だ!」
 二人は同じ不安を共有し、徐々に互いの距離が縮まっていくのを感じていた。士気が上がる二人が次に目を付けたのは、緑色のカットソーを着た、パーマががかった髪型の女の子だった。例によって眉目秀麗。卵型の輪郭も悪くない。その好奇心の強そうな愛嬌のある瞳が最高。西尾は震える体を引き締め、女の子に近づいた。
「か、か。か、彼女、い、一緒に!」
「ひっ? な、なになに?」
 いかん。これでは単に気持ち悪がられるだけだ。松田はフォローに入った。
「彼女、俺たちと一緒にドライブしようよ。そこの駐車場に停めてあるからさー」
 女の子は金髪赤髪の不細工に呼び止められ、明らかに恐れをなしていた。身体は震え、目は誰かの助けを求めている。
「い、いえ、結構です。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 また女の子は去っていく。
「ごめんな、松田。俺、全然駄目だよ」
「いや! やろうと思うのが大切だ。次も任せるぜ」
 俺もその痛みを共有しているんだ。あんな可愛い女の子に脅えられるような男にはなりたくなった。でもよ、この体験は決して悪いことじゃないはずだ。松田はそう自分に言い聞かせた。でなければこれはただの苦行になってしまう。
 西尾が声をかけては、女の子が逃げていく。パターンが固定されていった。しかし慣れるもので、西尾はどもらずにナンパができるようになった。それは確かな成長だった。
「俺たちと一緒にドライブ行かない?」
「ごめんなさい」
「俺たちとドライブいこーよー」
「すみません急いでるので」
 前時代のナンパ術で次々玉砕する二人、成功例は一つとしてなかった。しかし、二人は今まで感じたことのない快感を覚えていた。女の子との触れ合いといい、自分たちを主張する行為といい、自分たちの新しい世界が開けていく気がした。
 ナンパロードは異様な雰囲気に包まれていた。時間は過ぎ、人は動き、ついに均衡が破られる時が来た。
 松田が次の女の子に声をかけようとした瞬間、西尾が突然倒れ込んだ。松田は何が起こったのかすぐにはわからなかった。後ろを振り向くと、二人組の男が立っていた。明らかにこちらに敵意を示す、野獣のような目つきだった。その少し後ろに、さっきナンパした覚えのある卵型の輪郭の女の子が不安そうに立っていた。
「てめえらマキにセクハラしてんじゃねえよ」
「セクハラ、だと?」
 松田は最大の侮辱を受けた気がした。俺たちはそんな卑怯な事をした覚えはない。正々堂々とナンパをしていたのだ。セクハラと一緒にするんじゃない。
 すると間髪いれず、男たちは松田の頬にも拳を入れた。鈍い痛みを感じ、松田はよろめきつつ、なんとか立ちあがり、男たちを睨みつけた。
 どうやら喧嘩を売られているらしい。松田は二人の様子を見るに、血の気の多い、獰猛な人種だと思った。そして顔はキリっとした目をはじめとして、それなりに整っている。髪型もソフトモヒカンや無造作ヘアで、随分イケメンを気取っているようではないか。女を連れているのだから、それなりにモテるのだろう。
「俺たちはセクハラをしてたんじゃない。ナンパをしてたんだ。それの何が悪い」
「ふざけんな。マキがどれだけ傷ついたかわかってんのか。セクハラと同じだろうが」
「へえ、そういうことを言うんだね、良い身分じゃないか」
 松田は次の瞬間。ソフトモヒカンの男を拳で殴っていた。男は後ろに転倒し、顔を押さえている。意外といける物だ。松田は昔、空手をやっていたことを思い出した。マキが後ろで口に手を当て、目を見開いていた。
「ごちゃごちゃうるせえんだよてめえら! ちょっとくらい顔が良いからって人を舐めるんじゃねえ!」
 松田の言葉に気圧されつつも、もう一人の無造作ヘアの男が殴りかかってくる。その拳が頬をかすめるが松田はひるまない。その筋肉の塊の腕を振って男を、殴る、殴る。もう一発殴る。男は鼻血を流して倒れ込んだ。
「おい、松田やばいよ。もうやめよう」
 気付くとナンパロードには人だかりができていた。遠巻きに犯罪者を見るような目で野次馬たちが群がっている。確かに、これじゃ見せものだ。松田は西尾の言葉を了解し、即座にその場から立ち去った。
 警察が来るかもしれない、という恐怖から逃げるため、二人は全力で走った。走っているうちに、二人は不思議と笑いが込み上げてきた。
「松田ぁ。お前変わったな。いつからそんなに強くなった?」
「今さ、お前のおかげでもある」
「なんか俺わくわくする。俺も身体を鍛えてああいう奴らをぶちのめしたい」
「そんなに志を低くする必要はない。もっと夢をでかく持とうぜ」
「海賊王になるとかか?」
 西尾の冗談に、幼いころの夢を思い出した松田は「それも良いかもな」と呟いた。
「アハハハハハハハ」
「あっはっはははは」
 二人は自分たちのやっているあまりの無軌道でエネルギーに溢れた行為に、笑いが止まらなかった。
――故郷を離れて、俺たちはナンパをしている!

 助手席の窓から、松田は外の景色を眺めていた。高速道路を100キロで走る。次々過ぎていく道の遠く先に、富士山が見えた。
 旅の恥はかき捨て、とはいえ、正直松田にも恐怖心はあった。女の子から恐ろしいものを見られるのは辛かった。だが、やってみることで壁は取り払われることを実感した。松田は今までなりたかった自信に満ちた人間になりつつあった。
 受験からは解放された。この急上昇中な俺の器を育てていけば、彼女だって当然できる。そうなればセックスも後からついてくるだろう。喧嘩だってさっき圧勝で締めた。ただ、不思議な不安があった。一体何が不安なのだろう。いくら強くなっても、不安は取れないものなのだろうか。学校で俺たちを馬鹿にしていた奴らは、あんなにも余裕があるように思えたが、あいつらはどうだったのか。
 俺は切なげに過去を振り返る、今となってはあまりにも遠い。
 そういえば、何故富士山が見えるのだろう。
 俺たちの故郷はもっと東にある。どうやら西尾はあらぬ方向に車を走らせていた。
「西尾、お前東京に帰るんじゃないのか? こっちは逆だろ?」
「静岡に行こうと思う。海を探そうぜ」
「海? なんのために?」
「天気予報は明日も晴れだ。陽射しを強いらしい。そこでだ。思いっきり日焼けして、本格的に『大学デビュー』って奴を目指したくはないか?」
 大学デビューとは、高校でパッとしなかった生徒が、大学入学前にがらりとルックスを変えていくことを言う。なるほど、俺も西尾も、既に大学デビューに至る準備ができているわけだ。松田は西尾の提案に乗った。
「そうか、日焼けか。その発想はなかった。高校時代とは打って変わった華々しいキャンパスライフがおくれるかもしれないな」
 西尾がニッと笑う。すっかり人の変わった西尾を見て、松田は嬉しくなった。いや、変わったのではない。引き出されたのだ。元々こういう熱い男だったに違いない。試練を抜けて、俺たちはどんどん自由になっていく。
「伊豆だ。伊豆に行こう。まっ黒になってやろうぜ」
「愉快だなあ。本当に愉快だ」
 沼津ICを抜け、車で行くこと三時間弱。伊豆に入ると、二人は海水浴場を探した。遠目に広い海が広がり、松田と西尾は目的地が近いことを実感していた。辺りはすっかり暗くなっていたが、二人にとっては関係なかった。
「今日は旅館にでも泊って、刺身の盛り合わせと行こうぜ!」
 松田が甲高い声で提案する。
「良いねえ、割り勘か?」
「当然さ」
 伊豆の旅館が立ち並ぶ街並みを過ぎていく。そしてついに人気のない海水浴場に二人は到着した。海には星空の光が煌々と映しだされ、なんとも神秘的な、是非ともいずれできる彼女に披露したい景色だった。滑らかな砂浜にダイハツムーヴを停め、二人は狂喜して歌を歌い始めた。
「しー! おーれたちは昔から、この街にあこーがーれて」
「じーもとーじゃー負けしらーずー、そうだーろ!」
 周りに人がいないことを良いことに、二人は絶好調だった。そんな青春を歩んできたわけでもないのに、妙に自分たちの心に響いた。
 青春アミーゴを歌い終えると、西尾がドアから飛び出し、服を脱ぎ捨てて海に走り出した。松田はブナシメジのようなものが西尾についているのを一瞬目撃した。
「待てよ西尾、俺を置いていくな」
「そのつもりはねえ、早くついてこい!」
 松田も服を脱ぎ捨て、海に向かって駆けだした。西尾、続いて松田が海に飛び込む。海水は思いの他、冷えていて、過ぎ去った冬を思い出させた。
「寒いいいいい!」
「やっぱ季節が悪いわ」
 松田は海水まみれになり、西尾と互いに水をかけ合った。金髪も赤髪もまるでわかめのように垂れ下がっていた。舌が塩辛さにびっくりしていた。すいた腹が、旅館の刺身の盛り合わせを求めていた。
――そうか。何かをしているうちは、不安なんてなくなるんだ。
 松田は小さい悟りを開いた。西尾と騒いでいると、先ほどの不安など消し飛んでいた。松田はどんどん自分に力が満ちていくのを感じた。
 俺達は走り続ける。そうだろ?
 待ってろ、キャンパスライフ。
 魂が全てを求めているんだ!
 松田は心の中で叫んだ。そして腹の底から絶叫した。手を叩いて笑う西尾。
 松田と西尾は、そのままいつまでもいつまでも、力の限りはしゃぎ続けた。(了)

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